世の中が混乱する前、温泉地に行った時のこと。
ホテルにチェックインしてとりあえず温泉に入り、部屋で茶菓子を食べ、さて足湯にでも行くかとフロントの階をブラついていると、ハモンドオルガンとピアノとKORGのシンセ二台、計四つの鍵盤がデデデンと置いてあるステージを見つけた。
展示品かなあと思ったが、どうやら夜に、週3でピアノ、週4でシンセサイザーの公演をやっているらしい。
自分が宿泊した日は、シンセサイザーの公演の日だった。
夜、会場へ行くと、祖父と父の間くらいの歳の男性が、衣装を着てハモンドオルガンを弾いているのが見えた。
はて少しみてみようかしらんと、バーカンで生ビールを注文して演奏をみる。
彼はシンセサイザーを駆使して、クラシックからアンパンマンのマーチまで、乱れぬ演奏をしていた…。乱れぬ演奏……。一切、ぶれぬ………。
これは、当て振りなのでは?
当て振りとかマジかよ、と思うタイプではサラサラないのだが、むくむくと疑念と興味が湧き上がってきて、よせばいいのに、彼が一度休憩を挟んだ際に、すごく前の席に移動した。
休憩明け、前の席に座っている人がいるのに驚いたのだろうか、
「前の席に座って、音がうるさくないですか。大丈夫ですか。」
と掠れた声で心配されたので、
「えっと大きい音には慣れているので…ははは…。」
と笑っておいた。
やっぱり当て振りだろうなあと思いながら、尾崎豊シンセサイザーアレンジなどを聴き、時間は経ち、終演後、これまたよせばいいのに、軽い気持ちで、KORGのシンセサイザーを指差して彼に話しかけた。
ーこのシンセサイザーってどんなですか。
彼は、公演中よりも数倍くらい嬉しそうな顔で、シンセサイザーの解説をはじめた。
「これね、このモデルを改造しましてね…。」
ーこっちのハモンドオルガン、えらいボタンついてますね。
「これもこういう仕組みで…良い音が鳴るんですよ。こんなかんじでね…。」
彼はチャリラリラ、とちょい弾きしてみせる。そのジャズチックなちょい弾きが上手すぎて少し引いたとともに、なんでこの人当て振りしてるんだろうと思う。
「でも、これも段々と壊れてきてしまいましてねえ…。ヒヤヒヤしながら弾くんですよ。あなたは楽器のことを知っているんですね。何か音楽をやられているのですか?」
ーえ、えっと、その、バンドをやっています。
「良いですね。しかし、同業者に見られるのはいちばん緊張しますね。あなたは若いから、バンド仲間と楽しくやってくいることでしょう…。わたしも、若い頃はアメリカ軍の基地にいて、セッションをしたりしましたが…。今となっては音楽乞食です。どんなこともやるんです。」
ーもともとジャズをやられていたんですか。今日はアンパンマンもやっていましたが。
「ええ、ジャズピアノをね…。アンパンマンは、孫が好きだからね…。なかなかピアノだけじゃお客さんはついてこないですよね。今は音楽乞食なんですよ、本当に。尾崎豊も今日はやりましたが……。ところで、あなたは楽器は何を?」
ーあ、わたしはドラムを…。
「良いですね、楽しいでしょう。わたしもシンセサイザーでドラムを打ち込むにあたって、まるでわからないから、ドラムを学んだこともありました。家に三台ほどセットがありますよ。シンバルなんかは古くてもう割れシンバルですが。メーカーは何を?わたしはLudwigのスネアの音が好きなんです。あれは良い…。」
いやどんだけ広い家なんだ、一台くらい欲しいな。サラッとすごいことを、やさしい笑顔でこのじいさんは言うな。
というか、今はいろいろと充実してるから、いくらでも学びようがあるけれども、彼の時代、イチから楽器を学ぶのに、いったいどのくらい時間をかけたのだろうか。想像するだけでクラクラする。
「あなたは若いから、楽しんで、頑張ってくださいね。今日はみてくれてありがとうございました…。」
譜面を片しながら、最後までやさしい笑顔で見送ってくれた。
まるで自分が話しかけたきっかけも見透かされているかのようであったが…。
彼がなぜ当て振りに行き着いたのかはわからない、が、一つ一つの言葉が刺さってずっしりと重くて、ああ軽い気持ちで話しかけたら大火傷をしちまった、人に歴史ありとはこういうことなのかもしれないと思いながら部屋に戻り、牛乳サブレを食べ、酒を飲んで寝た。